
江戸の幕末から明治までの複雑な時代の流れをできるだけわかりやすくまとめます。
公武合体派(朝廷と幕府協力体制)
薩摩藩 会津藩 福井藩
土佐坂本竜馬
岩倉具視 (天誅組に追いやられ5年間政局からはなれる)
孝明天皇 → 八月十八日の政変 禁門の変 長州征伐
新撰組(将軍の警備→京都の警備) → 池田屋事件
慶喜 → 大政奉還 (戊辰戦争 明治政府軍 VS 旧幕府軍 榎本武揚 新撰組)
尊王派(朝廷が政治の中心)
公家 三条 天誅組
水戸藩 水戸学
攘夷派(開国反対 外国人追放)
天皇 公家 天誅組
薩摩藩 生麦事件 → 薩英戦争
長州藩 高杉晋作 → 馬関戦争
水戸藩 天狗党 → 桜田門外の変 坂下門外の変 天狗党の乱
↓ 現状の武力では攘夷できないことを悟り、矛先を幕府に定める
倒幕派(藩独自で自治)
長州 開国攘夷反幕府 吉田松陰
桂小五郎 伊藤博文(薩長同盟)
岩倉具視(公武合体派だったが、孝明天皇死後、薩摩藩倒幕派と合流) → 王政復古 (戊辰戦争 明治政府軍(薩長)VS 旧幕府軍)
※薩摩藩は薩長同盟により公武合体派から倒幕派へ
開国(富国強兵・未来攘夷派)
徳川幕府 井伊直弼(安政の大獄)
一橋家慶喜 福井藩 松平春嶽 橋本左内 (将軍継嗣問題で謹慎・斬首)
勝海舟
坂本竜馬 岩崎弥太郎(土佐藩)
五代友厚(薩摩藩)
ペリー黒船来航まで
1830年 天保元年 水戸藩主・徳川斉昭、藩政改革を開始
1831年 天保2年 ロシア船が蝦夷に侵入
1832年 天保3年 水戸藩、海防掛を設置
1837年 天保8年 アメリカ船モリソン号、浦賀港に侵入
1843年 天保14年 長州藩藩士・村田清風、藩政改革を開始
イギリス船サマラン号、八重山に上陸し測量を強行
1844年 弘化元年 フランス船アルクメール号、那覇に入港し通商を求める
1845年 弘化2年 アメリカ船マンハッタン号、漂流民を乗せ浦賀に入港し通商を求める
イギリス船サマラン号、長崎に入港
1847年 弘化4年 薩摩藩、砲術館を設置
徳川慶喜、一橋家を継承
水戸藩主・徳川斉昭、外国人追放に対する意見書を提出
1849年 嘉永2年 イギリス軍艦マリナー号、浦賀、下田に来航し測量を行う
1853年 嘉永6年
6月3日 ペリー来航
6月22日 12代将軍徳川家慶死去
10月23日 徳川家定13代将軍就任
1854年 安政元年
1月16日 ペリー再来航
3月3日 日米和親条約調印
3月27日 吉田松陰、金子重輔、下田のペリー艦隊で密航を企てるが失敗
1855年 安政2年
10月2日 安政の大地震 死者7000人以上。藤田東湖死去
ペリー来航の23年前から水戸藩徳川斉昭や薩摩・長州その他の藩政改革を始めていた藩は武装を強化し、外国の侵入を警戒していた。
黒船という言葉は、ペリー来航前から、異国船として知られている。
なぜペリーの黒船だけが恐れられたのか?品川にお台場砲台を建設。
ペリーは琉球にもどり強姦や略奪をやりたい放題していた。
安政の大獄と桜田門外の変
1857年 安政4年
10月16日 越前藩主・松平慶永など、徳川慶喜を将軍継嗣にと建言
1858年 安政5年
1月6日 薩摩藩主・島津斉彬、徳川慶喜を将軍継嗣にと勅命を奏請
3月20日 朝廷は事実上の条約勅許拒否を老中堀田正睦に伝える
4月23日 彦根藩主・井伊直弼が大老に任命される
5月1日 13代将軍・徳川家定が大老、老中に対し内々に徳川慶福を継嗣とする申し渡し
6月19日 日米修好通商条約調印
7月6日 徳川家定死去、14代将軍に徳川家茂(慶福)就任
8月8日 戊午の密勅(朝廷、条約締結を違勅とする勅諚を水戸藩に下賜する)
9月5日 安政の大獄開始
1859年 安政6年
10月7日 福井藩士・橋本左内斬首
10月27日 吉田松陰死罪
1860年 万延元年
1月~5月 小栗忠順、日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節として渡米。勝海舟は護衛として、咸臨丸で渡米
3月3日、桜田門外の変。井伊直弼死亡
日米修好通商条約は不平等条約だが受け入れることにより、植民地化を阻止。
孝明天皇は勅許していないのに条約を結んだ江戸幕府を軽視し、水戸藩とやりとり。
それではまずいので、一橋家一派も開国派で同じ考えだが、幕府の存在をしめすため井伊直弼が安政の大獄をはじめる。
下関戦争と薩英戦争と薩長同盟
1855年 安政2年
7月29日 幕府、長崎海軍伝習所を設置
1860年 万延元年
1月~5月 小栗忠順、日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節として渡米。勝海舟は護衛として、咸臨丸で渡米
1862年 文久2年
5~7月 高杉晋作、五代友厚と共に上海視察
8月21日 生麦事件
1863年 文久3年
5月10日 長州藩米船攻撃(下関事件)
仏船、蘭船にも攻撃
5月~翌6月 伊藤博文、イギリス留学
6月 アメリカ・フランス軍艦による報復
6月6日 高杉晋作、奇兵隊創設
7月2日 薩摩英戦争
1864年(元治元年)
5月 勝海舟の建言により神戸海軍操練所設立、私塾海軍塾も設立
7月18日 禁門の変 蛤御門
7月23日 第一次長州征伐
8月6日 四国連合艦隊により下関砲台占拠される
12月16日 高杉晋作、下関功山寺で挙兵
12月27日 幕府、長州領から撤兵する
1865年 慶応元年
3月22日 五代友厚、イギリス留学に出航
5月1日 坂本竜馬、下関で桂小五郎を会合
5月16日 第二次長州征伐へ徳川家茂出陣
9月16日 四国連合艦隊兵庫沖にあらわる(兵庫開港要求事件)
10月5日 修好通商条約に勅許下るが兵庫港の開港は認めない
1866年 慶応2年
1月21日 薩長同盟締結
1月23日 坂本龍馬、寺田屋にて遭難
2月 五代友厚、イギリス、ベルギー、オランダ、フランスなどを訪問し帰国
6月7日 第二次長州征伐開戦
7月20日 14代将軍徳川家茂、没
9月2日 孝明天皇、長州征伐休戦の勅命を下す
薩長がイギリスとの連携するのに対して幕府は共通の危機感を抱くフランスの助言を聞くことに
9月28日 小栗上野介、幕府フランス間の600万ドル借款契約に成功
1867年 慶応3年
4月14日 高杉晋作、病死
4月15日 フランス600万ドルの対日借款を取り消し
4月23日 いろは丸衝突事件
6月12日 坂本竜馬、船中八策を示す
10月3日 土佐藩前藩主・山内容堂、大政奉還を建言
10月6日 大久保利通、岩倉具視に幕府との戦争に備えて錦旗の使用を提案し製作を指示
岩倉具視赦免される
10月13日 徳川慶喜、二条城で大政奉還の諮問を行う
10月14日 岩倉具視、中山忠能と正親町三条実愛と中御門経之と画策して、薩摩・長州へ討幕の密勅を手渡す
10月14日 大政奉還
11月15日 近江屋事件坂本龍馬暗殺
12月9日 王政復古の大号令 小御所会議
八月十八日の政変
1862年 文久2年
1月15日 水戸藩浪士が坂下門外の変。老中安藤信正、暗殺未遂
安藤らが失脚した後に松平春嶽・徳川慶喜ら一橋派が島津久光の台頭で復帰
7月6日 幕府、徳川慶喜を将軍後見職に任命する
7月9日 幕府、福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命する
8月1日 会津藩主・松平容保を京都守護職に任命
1863年 文久3年
2月4日 清河八郎の提唱により、浪士組の募集が始まる
2月23日 浪士組、入京
3月4日 将軍・徳川家茂、入京
3月13日 浪士組、江戸に帰るが、近藤勇らは残留
6月13日 将軍・徳川家茂、江戸に帰る
8月14日 会津藩の秋月悌二郎が薩摩藩邸を訪れ会薩同盟の承諾を伝える
8月17日 天誅組の変
8月18日の政変
12月3日 朝廷、徳川慶喜・松平容保・松平春嶽らを参与に任命
1864年 元治元年
3月27日 天狗党筑波山にて挙兵
6月5日 新撰組、池田屋事件
7月18日 禁門の変
7月23日 第一次長州征伐
12月16日 天狗党福井藩に降伏
12月16日 高杉晋作、下関で挙兵
12月27日 幕府、長州領から撤兵する
1865年 慶応元年
2月4日 天狗党処刑される
孝明天皇崩御と明治天皇と大室寅之祐と箕作奎吾
1865年 慶応元年
2月 フルベッキ写真撮影(偽)
1866年 慶応2年
7月20日 14代将軍徳川家茂、没
12月5日 15代将軍徳川慶喜就任
12月12日 孝明天皇、高熱を発す
12月16日 孝明天皇の体に発疹があらわれ疱瘡と診断される
12月23日 孝明天皇、膿が収まり、吹出物が乾きはじめ、食欲回復、順調に快復
12月25日 孝明天皇、容態劇変、発熱、嘔吐、血便で崩御。享年37
1867年 慶応3年
1月9日 明治天皇14歳、践祚(せんそ)
10月15日 明治天皇、大政奉還を勅許
11月15日 坂本竜馬、中岡慎太郎、暗殺
12月9日 王政復古の大号令
1868年 慶応4年(明治元年)
7月17日 江戸が東京に改められる
9月8日 明治に改元
10月27日 フルベッキ写真撮影
1869年 明治2年
3月28日 明治天皇、江戸城入城
孝明天皇は病死ではなく暗殺された。
明治天皇(睦仁)すりかえ説は、大室寅之祐は護良親王の子孫であるので天皇になれる資格があるためあながち嘘ではない。国体天皇が睦仁で、政体天皇が大室寅之祐になった説。
佐賀藩主鍋島直正とイギリスがつながっており、財政面で薩長を牛耳っていた。
長州が大室寅之祐を明治天皇とすりかえようと計画したが、鍋島が田布施に連れてきた若者(皇太子 睦仁 )と大室寅之祐を代えるように指示し、若者(皇太子)が明治天皇となった。
大室寅之祐は消されたが、では、すりかえられる前の明治天皇は誰が演じていたのか謎である。
ちなみに田布施システムは平安時代から行われていた。
フルベッキ写真の嘘と真実
致遠館(佐賀藩が長崎に建てた英学校)の塾生たち
なにが本当かわからなくなった
大政奉還と王政復古の大号令と戊辰戦争
1867年 慶応3年
4月15日 フランス600万ドルの対日借款を取り消し
6月12日 坂本竜馬、船中八策を示す
10月3日 土佐藩前藩主・山内容堂、大政奉還を建言
10月6日 大久保利通、岩倉具視に幕府との戦争に備えて錦旗の使用を提案し製作を指示
岩倉具視赦免される
10月13日 徳川慶喜、二条城で大政奉還の諮問を行う
10月14日 岩倉具視、中山忠能と正親町三条実愛と中御門経之と画策して、薩摩・長州へ討幕の密勅を手渡す
10月14日 大政奉還
11月15日 近江屋事件坂本龍馬暗殺
12月9日 王政復古の大号令 小御所会議
12月23日 江戸薩摩藩邸焼き討ち決行
1868年 慶応4年
1月3日 鳥羽伏見の戦い
2月13日 徳川慶喜、江戸城を出て上野の寛永寺に閉居
3月20日 徳川慶喜、水戸藩で謹慎が命ぜられる
4月11日 江戸城、無血開城
5月15日 彰義隊、寛永寺上野戦争で敗退
7月19日 徳川慶喜、水戸から船で駿府へ移る
7月26日 新政府、イギリス東洋銀行から50万ドル借款契約
8月19日 榎本武揚艦隊江戸湾を出発
9月8日 明治に改元
10月25日 榎本武揚ら、五稜郭を占拠
1869年 明治2年
5月11日 土方歳三、戦死
5月18日 五稜郭陥
1861~1865年 米南北戦争
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