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中西麻耶は結婚より金!彼氏より49cm?事故で得た覚悟と夢への跳躍

   

中西麻耶 画像

走り幅跳びでリオデジャネイロパラリンピックに出場する中西麻耶選手。彼女の競技人生は自らの障害だけではなく世間のバッシングとの戦いでもありました。

 

1度は引退を決意するも覚悟の復帰‼︎

彼女を復帰まで導いた両親との約束とは⁉︎

 

中西麻耶選手が障害を負って陸上と出会うまでのエピソードには彼女がスポーツに懸ける”覚悟の強さ”が垣間見ることができます‼︎

中西麻耶選手のWikipedia風プロフィール

【名前】なかにし まや
【生年月日】1985年6月3日
【出生地】大阪府大阪市
【出身地】大分県由布市
【身長】158cm
【体重】50kg
【血液型】A型
【出身校】明豊高等学校
【所属】大分県身障者陸協
【種目】100m、200m、走り幅跳び
【クラス】T44
【自己ベスト】
・100m:13秒84
・200m:28秒52
・走り幅跳び:5m51

私にはスポーツしかない!!義足と陸上との出会い

中西麻耶 フライデー 画像

2007年、
初めて出場した大会でいきなり100mの日本新記録を樹立する走りで鮮烈なデビューを果たした中西麻耶選手。

 

その翌年、
2008年の北京パラリンピックでは100m6位、200m4位と日本女子初の入賞。けれど彼女の口から出た言葉は「井の中の蛙」。

 

陸上を始めてわずか1年でパラリンピックの舞台に立った中西麻耶選手の目線の先は表彰台の1番上しか見えていませんでした。

事故で脚を切断‼︎突然失ってしまった目標

中学から始めたソフトテニスで高校時代は高校総体(インターハイ)や国体にも出場したことがある中西麻耶選手。

 

高校卒業後は2008年の大分国体を目指してソフトテニスを続けるため「肉体労働ならトレーニングにもなる」と塗装工になりました。

 

2006年9月14日。
雪崩のように落下してきた5トンもある鉄骨が彼女の右ヒザから下を押しつぶしました。

 

このとき中西麻耶選手には脚を切断するか時間がかかっても神経を繋ぐかの選択肢がありましたが「まったく迷いはなかった」と両親の反対を押し切って切断を決意したと言います。

 

「脚を切断して義足になったほうが早く復帰できる」

 

中西麻耶選手は2008年の国体でソフトテニスを引退しようと決めていました。事故が起こったのは大分国体の代表を決める大会の2日前。少しでも早くソフトテニスの練習に戻りたかったそうです。

 

「こんなところで選手生命が終わってたまるか‼︎」

 

下半身麻酔でおこなわれた手術中も復帰のことだけを考えたそうです。

 

「最初は義足さえつければすぐにでもテニスができると思っていたんです」と話す彼女が突きつけられた現実はまともに立つことができない、まるで杖をついているような感覚。

 

必死のリハビリで半年後には義足をつけながらラケットを握ることはできましたが、中西麻耶選手はテニスの道を諦めることを決意しました。

陸上との出会いが取り戻したスポーツへの情熱

インターネットでスポーツ義足のことを調べてたどり着いたのが日本でスポーツ義足製作の第一人者である臼井二美男さん。

 

それまでのテニスにかける情熱を知った臼井二美男さんは「テニスは無理でも陸上なら競技専用の義足がある。大会を見てみないか?」

 

そこで目にしたのは義足をつけて颯爽とトラックを走り抜ける選手たち。その選手を見た中西麻耶選手は「負けられない」と陸上競技を始めることを決めました。

 

初めて陸上競技用の義足をつけて走ったとき、

 

「あぁ走るって気持ちいい…」

 

もう1度スポーツにかける情熱を取り戻した彼女はわずか半年で100m、200mの日本記録を更新。北京パラリンピックへ出場するまでの選手へ成長していったんです。

失意の引退!覚悟の復帰!

中西麻耶 カレンダー 画像

起死回生狙ったカレンダーが非難の嵐に

日本ではパラアスリートへの支援がまだまだ整っていません。中西麻耶選手もその1人でした。

 

年間活動資金は最低500万円‼︎

 

北京パラリンピックに出場してもスポンサーは思うようには集まらず、午前7時から寿司屋で8時間働き、そのあと練習。再び午後5時から深夜3時まで焼肉屋で働いたこともあります。また海外への遠征費などで借金が300万円あったとも言います。

 

「練習を続けるにはお金がいる」

 

資金を集めるために今まで鍛え上げた肉体と自身の障害をさらけ出すカレンダーを発売しました。これが「障害を商売にするな‼︎」と大バッシング…。

 

世間からの非難とパラリンピックへ出場しなければいけないというプレッシャーからうつ病にもなったと言います。そんなボロボロの状態で迎えたロンドンパラリンピックでは当然結果を残すことはできず…。

 

そして、

パラリンピック終了後に引退を決意しました。

再び羽ばたく義足ジャンパー‼︎

足を切断するときに交わした「弱音を吐かない」という家族との約束、アスリート仲間の応援、そして「アスリートの境遇を改善したい」という想い、そのすべてがもう1度陸上へ戻るきっかけとなりました。

 

2013年3月に本格的に復帰すると、2014年のジャパンパラ大会で5m27という大ジャンプでアジア新記録を樹立。

 

短距離走から走り幅跳びをメインにしたことで記録はグンと加速度を増して伸びています。

 

2016年4月の新日本製薬大分パラ陸上では自己ベストを大きく更新する5m48で優勝すると、2016年5月の日本パラ陸上競技選手ではさらに3cm更新する5m51のジャンプで優勝。

 

2020年の東京パラリンピックまでに「6mジャンパーになる」と高らかに宣言しています。世界記録は5m74で6mジャンパーとなれば東京での金メダルは間違いなく中西麻耶選手が手にするでしょう‼︎

6mジャンパーへの可能性

中西麻耶 走り幅跳び 画像

中西麻耶選手が6mジャンプを目指す理由はパラリンピックでの金メダルはもちろん、6m跳べれば健常者の大会(全日本選手権の参加標準記録が6m)に出場することができるからです。

 

6mまで近くて遠い49cm。

けれど決して不可能な数字ではありません‼︎

 

強靭な体幹と柔軟な股関節が義足を感じさせない走りを生み出し、助走での加速を義足の右脚が前へ跳ぶ力に変え、体全身での跳躍。

 

今は6mに向けて課題を1つ1つクリアにしている途中。初めて走り幅跳びを跳んだときはわずか3m。才能がないから辞めたほうがいいとまで言われたそうです。

 

けれど中西麻耶選手は彼女自身の可能性を信じて跳び続けてきました。実現可能な目標となった6mジャンプまであと49cm。まだまだ挑戦は続きます‼︎

中西麻耶選手のオフ⁉︎の素顔がわかるエピソード

【気持ちを奮い立たせる1曲】

彼女の陸上生活の支えとなっている曲がHIPPYの「大丈夫さ」という歌です。

 

「大丈夫 大丈夫だよ 涙流してもいい。ウソ笑なんかしなくていいんだよ。

お前らしく お前らしく そのままでいていいんだよ。一緒に笑おう 乗り越えていけるさ‼︎」

 

この歌詞を聞くたびにロンドンパラリンピックのときの自分と重なって辛いけれど、またもう1歩踏み出そうという気持ちにさせてくれると言います。

【お気に入り】

中西麻耶選手にとって義足は競技をともにするパートナー。毎回カーボン製の板バネ(L字に曲がっている部分)の部分に好きなデザインのラッピングをしてオリジナルの義足にしているんだとか‼︎

 

もう1つは、
ドバイの大会に出場したときに購入した指輪。内側にはアラブ語で「MAYA No.1」と彫っていて、跳躍の前には眺めては気合を入れていると言います。

【彼氏と結婚なんか…】

ロンドンパラリンピック後、引退を決意したときには結婚や将来の子どものことも頭に浮かんだかもしれません。

 

リオ、東京そして6mジャンプという明確な目標が、

「麻耶、今は結婚するときじゃない」

と囁いているんでしょう‼︎

 

妹さんが結婚して子どもが生まれたことで周りから婚期を心配されているんだとか(^^;;

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